書評シリーズ第二弾です。今回は佐藤多佳子著の『黄色い目の魚』(新潮社、2002年)を書評していきます。
『黄色い目の魚』の書誌情報
著者:佐藤多佳子
出版社:新潮社(全国学校図書館協議会)
発売日:2002年10月(1993年3月)
【著者情報】佐藤多佳子のプロフィール
生年月日:1962年11月16日
活動期間:1989年~
代表作: 『一瞬の風になれ』(2006年)
『明るい夜に出かけて』(2016年)
主な受賞歴:
月刊MOE童話大賞(1989年)
産経児童出版文化賞(1994年)
吉川英治文学新人賞(2007年)
本屋大賞(2007年)
小学館児童出版文化賞(2011年)
山本周五郎賞(2017年)
Wikipediaより
あらすじ
海辺の高校で、同級生として二人は出会う。周囲と溶け合わずイラストレーターの叔父だけに心を許している村田みのり。絵を描くのが好きな木島悟は、美術の授業でデッサンして以来、気がつくとみのりの表情を追っている。友情でもなく恋愛でもない、名づけようのない強く真直ぐな想いが、二人の間に生まれて――。16歳というもどかしく切ない季節を、波音が浚ってゆく。青春小説の傑作。
本書籍背表紙より
高校生時代に出会いたかった本
16歳というと日本では高校生の年齢。まだまだ青く恋愛経験にも疎い年齢でしょう(豊富な方も多いですが、疎い方も同様に多く……)。仲の良い女子ができたところで、友情として好きなのか恋愛感情で好きなのか分からなくなってしまうことも少なくはありません。私は本書を読んだのが19歳の時でしたので、高校時代に出会っていればと思う本でした。
【名場面/名フレーズ】くろが気になった場面とフレーズを紹介
本書は8編の短編で成り立っていまして、村田みのり目線の話や木島悟目線の話で進んでいきます。一編一編で時間軸は異なりますが、主要登場人物は基本的に同じで、みのりと悟を中心に通ちゃん(みのりの叔父)やテッセイ(悟の父)などの人物が登場します。
その中でも特に印象に残ったのは、本書のタイトルにもなった「黄色い目の魚」ではなく3編目の「からっぽのバスタブ」です。というのも、本編では美和子に宛てて手紙を書く場面が多々あるのですが、その内容にいちいち共感してしまうからです。順にいくつか紹介していきます。
(尚、今回は新潮文庫のものを読みましたので、ページ数は文庫本版のものです。)
ゆうべ、お父さんとケンカになって。勉強したいことってないし、ひとりで生きてく力をつけたいから、働きたいって言ったら、人の話、ぜんぜん聞かずに甘いっていうんだ。お姉ちゃんは私を馬鹿だって言う。家を出たいなら、地方の大学受けて、下宿すればいいのにって。そんなんじゃないのに。いくら、親のそばを離れても、親の金でガッコ行ったらおんなじじゃん。私、クレーンやパワーショベルなんかを運転する人になりたい。しっかりした技術を身につけて、やれることだけをちゃんとやって、毎日、おっかねえ顔で暮らしたいんだ。笑いたい時にだけ、少し笑うんだ。(116~117頁)
私の父母は基本的に私の行く道を応援してくれるので、みのりと違ってケンカにはなりませんが、「いくら、親のそばを離れても、親の金でガッコ行ったらおんなじじゃん」の一言には深く共感しました。というのも、本書を初めて読んだのは大学一年の時であり、当時親からの仕送り皆無で大学に行っていたからです(授業料はもちろん、家賃・光熱費・食費などすべて自費で何とかしてました)。立場と目標こそ違えども、みのりの言葉を見て自分は間違っていないんだと自信を持てました。
またケンカみたいなのやっちゃって。高校になったら、絶対やめようって思ってたのに。ケンカをしないでいるためには、嘘つきにならないといけないのかな。ほんとの気持ちうまく隠して。少しお芝居して。色んなこと考えて。失敗しないように。地雷を踏まないように。フツウに生きていてケンカをしない人がうらやましい。でも、そう見える人でも、いっぱい気をつかって生きてるのかも。オトナになるって、そういうこと?(125~126頁)
これは確かにと思う内容です。大人になってしまった自分はアスームイノセンスの概念をモットーにしてますのでお芝居とまでは行きませんが、なるべく失敗しない様にと色んなことを考えて結果ケンカをしないで済むようにしているなと思いました。「ケンカをしないようにできる=大人になる」というよりは、人を変えることの労力を考えると、自分が変わったほうが楽という諦めがついてしまうことが大人になることかなと私は個人的に考えました。
こうして見るとたった1編のなかでも、佐藤多佳子さんは本当に登場人物の機微の描写が細かいと感じます。それにもかかわらず、読者にくどいと思わせない点も凄まじいものです。誰もが通過する青春をリアリティに描いてるからこそ、飽きさせないしスッと入ってくる話になっているのかもしれません。
どの本を読んでも必ずひとつは気になるフレーズがありますが、本書では一つで済みませんでした。今回は気になったフレーズをひとつひとつコメントをつけて紹介していきます。
お父さんだって、私をなぐる。お母さんだって、私を傷つけることを平気で言う。二人とも、通ちゃんには、思いやりのかけらもない。自分たちだって、ぜんぜんえらい人間じゃないくせに、なんでそんなえらそうに、娘にえらい人間になれと言えるのだろう。(89~90頁)
これは世間の大人の多数に当てはまりそうです。自分はできていないことを相手には要求する。自分もできないけど相手には要求する。自分は大した人間ではないのに、相手には大した人間であることを要求する。家族だけでなく、現代日本社会で多く見られるからか、深く共感してしまいました。
人をキライだという自分の気持ちがすごく恐くなった。無口になった。誰かを簡単にキライになるのは止められない。でも、口に出さなければ、ナイフみたいに相手をぐっさり刺すことはない。心の血を見ることはない。(121頁)
ここで無口になれたみのりに感嘆するとともに、この言葉が非常に胸に響きました。今の世の中、自分の思っているよりもキライな人って多いんですよね。毎日が我慢との戦いなんて人もいると思います。究極の姿まで行くと、相手を傷つけてでも距離を離そうとするのですが、しっかりと相手の事まで考えている(単に相手を傷つけるのが嫌なだけかもしれませんが)みのりにはオトナな一面を感じました。
人をキライだという気持ちは汚い。毒がある。自分の出す毒にやられて自分が汚れて苦しくて死にそうになる。(121頁)
これはひとつ前のフレーズの直後に登場します。これを見ると、みのりは相手を思ってというよりも、相手をキライと思う自分が嫌で、人をキライになりたくないようです。オトナになってしまった私は人をキライになることを毒だなんて思いませんが、みのりは毒ととらえている。青いですが純粋で、この時期はこういう悩みを抱えて成長していくのだろうなと感じます。
俺はみっともないのは嫌いだった。とびきりカッコよくなくてもいいが、カッコ悪くなるのはいやだった。マジになるのは恐かった。マジになると結果が出る。自分の限界が見えちまう。マジで勝負をしなければ、なくすものもない。負けてみすぼらしくなることもない。すべて曖昧なままにしておけば、誰に何を言われてもヘラヘラ笑っていられる。(202頁)
これは悟がサッカーの試合中に考えたことです。これは特に心に残っているフレーズです。なるほどと頷いてしまいます。自分の限界が低かったら……負けて情けなくなったらどうしよう……これって自分によほどの自信を持っている方以外は人生で一度は直面する問題だと思います。自分の限界は伸ばせるものですが、伸ばすためには数多の挑戦と失敗を繰り返すことが必要で、それは勇気と根気のいることなんですよね。
神様はどういう人を選んで絵の才能を授けるんだろうね。世の中には二種類の人間がいるのだ。絵の描ける人と描けない人。(226頁)
これはホストのローランドさんを思い出しました(笑)「世の中には、2種類の男しかいない。俺か、俺か以外か」まさかローランドさんはこの本を読んでいたわけではないですよね?
なんだか胸がキューッと痛くなった。心臓がしぼりあげられるみたいに。苦しいくらい痛い。痛いけど、嬉しい。通ちゃんの口から木島のことを聞くのが嬉しい。(272頁)
みのりが悟のことを好きだと気が付く場面です。その好きは友達以上恋人未満のような好きではなく、彼のことを異性として好きになった好きでした。この場面、酒の入ったみのりが、悟の好きな人と叔父の通ちゃんがモデルにしている女性が同一人物というのに気が付き、2重に苦しい場面なんですよね。非常に胸が苦しい場面でした。
うんざりだ。喧嘩なんて、見せられるよりやるほうがまだマシだ。(287頁)
妹の玲美が家出した際に悟の母と祖父が喧嘩をしている場面に直面した悟の心情です。小さいころに両親が喧嘩をしていた場面に同じようなことを思っていたことを思い出しました。
一つ投げ出すと、何でもかんでも、全部投げ出す羽目になるのよ(314頁)
部活内での対立により、部活動をさぼる悟に母が投げた言葉です。これは正論に見えて、実はとんでもない言葉の暴力なんですよね。この言葉を素直に受け止めると、「背負ったものは何が何でもやりきれ。途中で投げるとぜんぶ投げ出すことになるのだから」とも聞こえます。忍耐強く最後までやりきることも大事なのですが、自分が壊れてしまわないように時には投げ出すことも覚えないと身が持たなくなるんですよね。少し考えさせられた言葉でした。
押さえつければ押さえつけるほど、反動で遠くへ飛んでいってしまう(334頁)
悟の祖父の言葉です。これも確かなことで、親に門限を厳しくされていた私は、大学生となり一人暮らしを始めた途端夜遊びに走りました。世間ではゲーム時間を管理されていた子供が大人になってゲームに没頭するケースなんかも見られますよね。押さえつけることは即時性はあっても長い目で見るとよいとは言えないのかなと。
娘は―息子もそうだが、閉じ込めておくわけにはいかんのだ。話をよく聞いてやって見守ることしかできない。子供が大きくなると、親のできることは本当にわずかになる。親は親、子は子だ。(335頁)
こちらも悟の祖父の言葉。これは子どもの立場である私でも分かります。妹は脛をかじっているのでこれには該当しませんが、早い段階で独立した私はまさにこの言葉の通りかなと思います。私の親も自立する子どもを前にもどかしい想いを抑えていることでしょう。
最後は自分だけだ。誰かのせいにしたらいけない(336頁)
こちらも悟の祖父の言葉。
このフレーズを聞いて思い出したのは、「耳をすませば」で雫のお父さんが雫に発した以下の言葉。
人と違う生き方はそれなりにしんどいぞ。何が起きても誰のせいにも出来ないからね。(「耳をすませば」月島靖也のセリフより引用)
自分の人生なので、最後は自分がなんとかしないといけない。当たり前のことですが、これがまた難しい!常に言い訳を並べるよりも、自分のせいで起きたことは自分で解決する姿勢をいつも貫きたいですね。
通ちゃんチにいると、私はどっかが育たない気がする。木島だけがぐんぐん育っていって、どんどん歩幅が違ってしまって、息をきらして走ってもついていけなくなるかもしれない。どうすればいいのか、わかんない。何をすればいいのかもわかんない。でも、考えないといけないんだ。通ちゃんのいないところで。通ちゃんにヒントをもらったりせずに。通ちゃんの手伝いをして自分も何かをしているような錯覚をしないで。一人で。(358頁)
これはみのりの言葉。ひとつ前のフレーズで自分で何とかするという話をしましたけど、みのりはまさに自立していこうとしているわけですよね。通ちゃんからの脱却。本書を読むとよく分かりますが、みのりの通ちゃんへの依存度はすさまじいものでした。それが悟との出会いによって、その状況を変えようとみのりは決意するわけです。たった一冊の本なのに、ここまでみのりが成長するとは。佐藤多佳子さんが丁寧にみのりの機微を描いてくれていた分、この成長を非常に身近に、そしてうれしく感じました。可愛がっていた姪っ子が大人になってしまった感覚に近いんですかね。私には姪っ子がいませんが、そんな気がします。
私の心からキライが減って、好きが増えてきた。それは、すごいことだ。ずっと望んでいて、なかなかかないそうもなかったことだ。木島一人を好きになっただけで、明るい濃い色が染みていくようにじわじわと好きが増えていく。世界が広がっていく。でも、もし、これがオセロのようなものだったら、どうなるんだろう?一番大きな最初の”好き”が白から黒になってしまったら、私が木島を好きでいられなくなってしまったら、バタバタと世界がキライの色に戻ってしまうんだろうか。「変わるって、いいことかな?」(372頁)
この本でみのりを見続けた方ならわかると思うのですが、木島を好きなことを自覚してからの成長が半端ないです。もし好きな人をキライになってしまう場面が来たら、好きになったことで変わった世界が元に戻ってしまうのかと悩むみのりの様子には心が揺れました。木島を好きになることで世界の見方が変わるってなんてすてきなんでしょう。私は現実でドキドキしないのに、この本を読んでいる間はドキドキしっぱなしでした。
なくしたくない、どれもこれも。どうしたら、なくさずにいられるんだろう?どうして、なくすことばっかり考えてしまうのかな?(375頁)
木島を失うことに恐怖を抱くみのり。一度マイナスな感情が優先されだすとそちらにばかり考えが傾倒してしまうんですよね。この世の中は何かを得るためには何かを捨てなければならない場面も出てきます。だからこそ、自分では変えにくい物や人をなくすことばかり考えがちなのかもしれません。あれだけサバサバしていたみのりが成長しすぎて私は困惑を隠せなくなりました。
好きという気持ちを宝物のようにしまいこむのをやめればいい。(386頁)
みのりが木島に気持ちを伝えることを決意した場面です。みのりがまた一皮むけましたね。人間好きな人との関係性が崩れることを恐れるものです。みのりもそれを危惧していましたが、問題は自分の怯える心であるとして、此の決心をします。みのりちゃんはどこまで成長してくれるのよ、非常に胸があつくなりましたね。
人は変わっていくけど、それでも、まったく別の人間になるわけじゃなくて、忘れてしまった気持ち、なくしてしまった笑顔がふいに甦ることがあるのかもしない。(397頁)
私も大学の4年間で見た目も中身もかなり変わりました。おそらく成人式以来合っていない仲間たちが今の私を見ても気が付かないかもしれません。冷たくなったと感じるかもしれません。私自身もその自覚はあるのですが、ふと中学時代や高校時代当時の心境を思い出す場面があります。「あの頃は青かった」とも思いますが、当時の自分なしに今の自分は存在しないのでしょうから、今後も大切にしていきたいものです。時には昔のことを思い出していきたい。
オトナは嫌いだ。恋人でもない男の子と簡単に寝たりしてしまう。男の子は嫌いだ。悪かったとか言うけど、それなら最初からしなきゃいいんだ。(410頁)
本当に病んでいる場面では、心に寄り添ってもらうよりも身体で会話してしまうほうが楽な場面があるんです。ただしたいからではなくて(そういう人が多いのも事実ですが)、時にはしてしまうほうが色々と簡単な場面が出てくるのではないかと思います。
才能なんてあるかわかんねえけど、やってみるよ。(431頁)
本気になると決めながら、どこか本気になりきれなかった木島の決意です。これは自分のモットーにしたいくらいのフレーズですね。我々は「才能がないから」と逃げてしまえるが故、本気でやってみることが減っている気がします。木島のこの姿勢からは自分の前に立ちはだかる壁に挑戦する際に勇気づけられると思います。
以上が気になったフレーズです。好きな作品なだけに多くなってしまいましたが、どれか一つでも心に残っていれば幸いです。
【感想】
「なぜこれを教科書に載せない?」というのが最初に持った感想でした。青春真っ盛りの中高生の時に読むのと、大人になってから読むのとでは得るものが大きく異なるので、思春期の時期に一度読んでおき、大人になってからもう一度読むことで本作の真価が分かるのかなと思います。
また、これは完全に個人的な感想なのですが、鎌倉が舞台なのも良かったです。鎌倉が舞台の作品って無性に惹かれるんですよね。「海街diary」や「ビブリア古書堂の事件手帖」なんかは話の内容も好きなのですが、鎌倉が舞台というのも好きな理由の一つです。何というんでしょう、古都の中の出来事って話をキラキラさせる作用でもあるんですかね。本書でも、鎌倉の情景が何度も登場するので、鎌倉好きな方には親近感を覚える作品かもしれませんね。
今回は佐藤多佳子さんの『黄色い目の魚』を書評しました。半分近く引用になってしまいましたが、読んで心を動かされること間違いなしです!特に思春期のうちに一回は読んでほしい作品です。
↓ 購入はここから↓
コメント